町田市立 自由民権資料館へ行ってきました~。

2025.6.15 小田急線の鶴川駅からバス。町田市立自由民権資料館へ行ってきました~。都議会選挙や参議院選挙があり、国会の重要性や言論の自由について考えて来ました~。

入場無料。町田市教育委員会が管理者です。

自由民権資料館のご案内/町田市ホームページ

資料の販売もあります~。

1、国会をつくろう!

教科書で習ったけど忘れた「自由民権運動」。板垣退助が演説しているところを警察官が止めるという挿絵を思い出すわ~。

そういえば、あれって何だったんだろう。勉強してきました~

町田市HPより→ 自由民権資料館常設展示「自由民権運動と町田」その1/町田市ホームページ

明治維新の後、明治政府が勝手に決めるな、国会で決めてよ、という国民の運動だったみたいです。

私は、減税してくれ運動だったように思います。当時は社会福祉という発想が乏しかったし、役人や偉い人達が私腹を肥やしてたのかな。

それで、国会ができちゃった!憲法もできちゃった!

みんなの自由平等で幸せを求めよう、国民の権利と自由を保障し、憲法で明治政府の政治権力を制限しよう、という考えだったようです。

色んな人が考えを演説し始め、言論の自由がなかったので警察が止めに来たり、選挙妨害があったようです。選挙妨害なんて今では考えられないし、現在、ちょっとのことで大騒ぎだなぁと思う時もあるけど、過ぎるくらい神経質でいいと思います。

選挙は大事だし税金も使ってるし、言論の自由も大事にしたいというのが私の考え。だから、選挙活動をビジネス目的で利用してほしくないなと思うわ。

資料館と関係ないけど、自由民権運動といえば板垣退助の「板垣死すとも自由は死せず」が有名です。社会主義には反対で能力による差は必要と考えていて、その考え方にもなるほどと思いました。深そうだから、またそのうちに。笑

引用:自由民権運動とは

明治10年代、人びとは納税・徴兵・教育などの義務を負う一方で、十分な権利が保障されずにいました。それに対し、国民の自由・権利を憲法で保障する立憲政治の実現をめざしたのが自由民権運動でした。政府には建白書や請願書を出し、人びとには演説や新聞・雑誌で自分たちの考え方を伝えながら運動の拡大をめざしました。

引用:「自由と民権」をもとめて

自由民権運動は、明治政府の専制政治を批判し、国会開設と憲法制定により、国民の権利・自由を保障し、国民の意見を取り入れる仕組みづくりをめざした政治運動でした。その根底には、人は生まれながらに自由平等で幸福をもとめる権利があるという「天賦人権」の思想と、憲法により政治権力は制限されるべきだという「立憲主義」の思想がありました。
明治7(1874)年に板垣退助らが提出した「民撰議院設立建白書」をきっかけに起きた民選議院論争が、自由民権運動のはじまりとされています。明治13(1880)年には、各地から国会開設を求める建白書・請願書が政府へ提出され、翌年にかけて各地で憲法草案がつくられます。政治結社や学習結社も生まれ、演説会や討論会が開かれるとともに、全国政党である自由党・立憲改進党も誕生しました。
人びとが憲法や国会、国や社会のあり方について考え、提案したことは、自由民権運動の大きな意義だったといえるでしょう。

2、町田は神奈川県でした

現在の町田市は東京都です。

明治26年までは、町田は神奈川県に所属してたそうです。現在の東京都下の大部分は神奈川県だったみたいです。

江戸時代の初め、自給自足で暮らしていた町田ですが、18世紀半ば(1750年くらい)ころから商業→貨幣経済がチラチラしてきたようです。

明治26年(1893)、選挙があり、妨害があったにもかかわらず自由党が勝つと、神奈川県知事は三多摩地方を東京にあげちゃった!

東京都になった経緯は、水道の利権が関係していると武蔵村山市にある博物館か資料館で、軽便鉄道の資料と一緒に年表で見た気がします。かたくりの湯でのんびりした記憶が。。。それぞれの立場があるから(≧▽≦)

3、武相困民党

町田市HPより 自由民権資料館常設展示「自由民権運動と町田」その3/町田市ホームページ

開国してから、町田から横浜までのルートが良かったようで、景気がよかったようです。外国人が通るので、農兵隊が出てきたという!(兵農分離で町田には兵隊がいなかった)

景気が良かったみたいだけど、蚕糸が売れなくなっちゃった。西南戦争で急激にデフレしたことや増税が影響したようで、急激な物価下落で不景気に。蚕事業の借金が返せなくなってしまいました。

民権家は、リスケなどの折衷案を探る穏健派と、借金ナシにしろと迫る強気派に分かれたようです。武相銀行も、困っただろうね。

この後、大阪事件(朝鮮政府の転覆を含めて革命を計画)が発生したり、他にも意見が違う人に対して暴力的になる人が出てきてしまいます。。。

私は思うけど、やっぱりある程度の経済的余裕って必要。人は困窮すると暴徒化するんだわと思う。

生活苦に陥るほどの税負担はいけないよね。けど、遊んじゃってお金がないはナシね・・・・。そう思うと、源泉徴収って素晴らしい制度だなと思ったりしました。

自由平等の思想も大事だけど、やっぱり刺さるのって税負担てところはあると思います。幕府からの助郷負担(人馬負担。1853年資料)が課されてキツかった資料がありました。

引用:武相地域の民権運動

現在の町田市を含む東京都多摩地域の大半は、もともと神奈川県に属していました。武蔵国6郡と相模国9郡から成り立つ旧神奈川県は、「武相」と呼ばれました。
武相地域には、開港地横浜があったため、欧米の思想に接する機会にも恵まれました。それらを採り入れながら新たな社会づくりを考えた地域リーダーたちにとって、欧米諸国の影響を強く受け、自由や権利を重んじて国会の開設と憲法の制定をめざす自由民権運動は、魅力的に映ったでしょう。
神奈川県会の開会は、県内有志の連携を生み、各地に結社ができるきっかけになりました。懇親会や演説会・討論会を開きながら、全国的な運動との結びつきを強め、武相地域は自由党の一大勢力地となりました。しかし、政府の言論弾圧や不景気により運動が停滞してくると、明治20年頃から、暴力も辞さない「壮士」と呼ばれる若手の民権家が出てきます。特に多摩地域の運動では、壮士の活動が盛んだったことも特徴でした。

4、資料館なので

町田市立自由民権資料館は、こじんまりした資料館。鶴川駅からのバスの本数も少なくて、訪問者も多くはないと思います。

駅から遠いところに資料館があるのは、ここが民権運動の勉強場所の跡地だった可能性が高いからみたいです。正式な場所は記録されてないので、証拠がなく。記録がないのは、警察に取り締まりを受けるから?

ゆかりの土地を寄附してもらったので、町田市教育委員会が管理を続けるようです。

自由民権に関する資料館のような施設は、日本には3つくらいしかないみたいです。高知県にあるみたいです。研究者や興味がある人が来ると、じっくり勉強できそうです。入場無料だし。

100円が戻るコインロッカーがあり、靴を脱いで資料館のスリッパに履き替えて上がります。だからかな、施設がキレイでした。

自由民権運動の展示室は写真NG,町田市の歴史展示室は写真OKでした!

私には興味深い資料館で、本を読めるスペース(6人掛けくらい)もあるし、別室の資料室には足尾銅山の本もあったみたいだったわ。

1時間、充実した時間でした!

石碑の書き起こし 凌霜館跡

帰りのバスを待つ間、凌霜館跡、という石碑を読んできました。「りょうそうかん」と読むそうです。石碑を書き起こししときます~。

凌霜館跡

ここは野津田の生んだ民権家 村野常右衛門が、1882年(明治16年)に私財を○いて、広さ20坪(66㎡)ほどの凌霜館(りょうそうかん)を建てた場所です。

村野はここに多くの青年子弟を集め、厳しい霜を凌ぐという名の通り、剣術を通して身体と精神を鍛え、同時に自由民権思想の学習を盛んに行いました。その中から続々と若い活動家が育ち、ここを拠点に民権運動が展開されたのです。その伝統はその後も村の青年たちに受け継がれていきました。

こうした歴史を刻む土地を御子孫の村野順三・婉子御夫妻から町田市にご寄附いただきました。そこで市では、ゆかりの地を記念して自由民権運動を中心とした資料館を建てるとともに、隣接土地所有者の丸憲夫氏のご○力を得て丘陵に続く貴重な緑を守っていくことにしました。

昭和61年6月

文化財指定のPDF → https://www.city.machida.tokyo.jp/bunka/bunka_geijutsu/bunkazai/bunkazaihogo_shingikai.files/20230214_siryou3.pdf

投稿者: 小野寺 美奈

税理士。農業経営アドバイザー試験合格者。認定経営革新等支援機関。相続診断士。FP。 川崎市・東京多摩地方を中心にした、地域密着・現場主義。 税務の記事はご自身で税法を確認されるか個別に有料相談に来てくださいね。