2025.3.2 宿河原の二か領用水で、徒然草の碑を見ました!
調べたこと、分からないなりにも記録しておきます~。
最初、碑を読んでもあんまり分からなかった・・・・。
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徒然草は鎌倉時代後期、1330年頃だという一説があるようです。
・あらすじ
ぼろぼろの彼らが、自分が死後に地獄に堕ちないように念仏を唱えているところ(宿河原のどこか)へ、一人のぼろがやってきた。
自分の師匠の仇討ちに来たという。ここで決闘するとみんなの迷惑だから外でやろうと言い、外で二人は差し違え、二人は亡くなった。
兼好法師は、聞いたからそのまま書いた、らしいです。
・ぼろぼろ?
書き出し。宿河原にぼろぼろがいて
ぼろぼろって何・・・。解説によると遁世者(とんせい)のことだそうです。分からないなぁ~。インターネット検索で、遁世とは、世をのがれて仏道修行すること、とありました。
無宿渡世人(とせいにん)と解説しているブログもみました。渡世人は、豪農が現れて格差拡大、貧困農民が日雇いや出稼ぎ・ホームレスとなってしまった浮浪人層、という書き方をされていました。
ぼろぼろ、、、やっぱりあんまり分からないなぁ~。
碑では、徒然草百十五段の終わり部分を載せきれずに省略されていました。ぼろぼろについて、続きがあった。
兼好法師は、ぼろぼろの人たちを仏道を願うといいつつ自分勝手で争いごとが好きな人たちと表現していて、あまり好意的には思っていなかった様子。
けど、この一件で少し見直したのかしら。
河原は決闘には向いてたみたいです。。。
・解説の碑 書き起こし
平成15年7月吉日と書かれた、川崎市民ミュージアム学芸員の望月一樹さんの解説の碑(改行はわたしです)
この石碑に刻まれている物語は、我が国古典の代表的な随筆作品といわれる「徒然草」の第百十五段である。
「宿河原といふ所にて・・・」という書き出しではじまるこの物語では、ぼろぼろと称される遁世者が、自分の師の敵討ちをする話である。
さて冒頭の「宿河原」の地名であるが、一説では川崎市多摩区宿河原の地とされる。
中世において「宿」は河川の渡河地点など交通の要衝地に発生し、市が開かれ人々が集住するなど都市的な景観を呈していた。さらに「宿」は宗教者たちが道場や寺院を建て、教線を拡大する拠点でもあった。
この話の中でも、ぼろぼろが集まって極楽往生のために念仏を唱えている様子が語られている。
さてここ宿河原には、現在は下綱会館となっている地に阿弥陀堂があったといわれる。また元は長尾山の中腹にあったものを移築したとも伝えられている。そして会館には、阿弥陀如来像が安置され念仏供養が行われている。
この石碑は、宿河原の地名を記したと考えられる最古の書き物である「徒然草」の物語を刻み、また古くからあった念仏供養の姿を後世に伝えるため、宿河原町会によって建立された。土地の歴史の一つとして、未来にわたって伝えられていくことを願う次第である。
・徒然草 第百十五の段 書き起こし
徒然草 第百十五の段 作者 兼好法師
宿河原といふところにて、ぼろぼろ多く集まりて、九品の念仏を申しけるに、
外より入り来るぼろぼろの、「もしこの御中に、いろをし房と申すぼろやおはします」
と尋ねければ、その中より「いろをし、ここに候。かくのたまふは、誰」
と答ふれば、「しら梵字と申す者なり。おのれが師、なにがしと申しし人、東国にて
いろをしと申すぼろに殺されけりと承りしかば、その人にあひ奉りて、
恨み申さばやと思ひて尋ね申すなりけり」といふ。いろをし、「ゆゆしくも尋ねおはしたり。さる事侍りき。ここにて対面し奉らば。道場をけがし侍るべし。
前の河原へ参りあはん。あなかしこ、わきさしたら、いづかたをもみつぎ給うな。
あまたのわづらひにならば、仏事の妨に侍るべし」と言い定めて
二人河原へ井であひて、心行くばかりに貫きあひて、共に死ににけり。
※ 書き起こしの答え合わせはこちらの一般サイトを参考にしました https://roudokus.com/tsurezure/115.html