日暮別邸記念館に行ってきました 誠意の四阪島

2025.8.16 愛媛県にある別子銅山の日暮別邸記念館(ひぐらしべってい)に2025年4月24日に行ってきました!いまごろまとめ。

自分メモを記しておきます!正式情報は、住友グループのホームページなどで確認してください~。

・日暮別邸記念館について

日暮別邸記念館 | 住友の歴史 | 住友グループ広報委員会

もともとは四阪島にあった日暮別邸ですが、老朽化の為に新居浜市内に2016年に移築開始。2018年11月から一般公開。

日暮別邸は、イオン新居浜の裏あたりに移築されています。

新居浜駅からイオンまでバスが出てます~。

日暮別邸

・優しさの四阪島

四阪島(しさかじま)は、新居浜にある惣開製錬所の煙害が発生したため、新居浜から20キロ離れた無人島の四阪島に製錬所を移動すれば煙害被害がなくなるだろうと考えて2年分の純利益を当時で移転。しかし、煙害は広がってしまった。

よかれと思ってやったこと。けど失敗した。。。

もとは無人島の島生活、水すら無いけど水は毎日運ぶことにした。住民が助け合って暮らして運動会をしたり、浪曲を聴いたり(新居浜から船で人気浪曲師を呼んだみたいです)、海水風呂に入ったり暮らしていたようです。閉鎖された環境で楽しいことばかりではなかっただろうけど。

広瀬宰平から伊庭貞剛、枯れた山を元に戻し住友林業としてビジネスに、煙害の元となる化学物質を活用して住友化学としてビジネスに。資源を持って行って地域を使い捨てしなかったところが好き!(まぁ、良いことだけ展示するものだけど)

鉱員の預金管理の住友銀行、鉱山事故に備えての住友生命、と別子銅山のルーツであるとインターネットで書いている方もいた。鉱山の仕事はかなりの重労働で鉱山夫たちの苦労やその他のすべては展示されないと思うけど。

旅行客の私にとっては優しいエピソードを思い出す四阪島・日暮別邸でした。

日暮別邸記念館の外広場から惣開の住友・工業地帯を見る。きれいだなぁ~。

 

別子銅山の木が大阪万博で使われているそうです。大阪万博とお揃いのベンチ!

・明治時代の別子の製錬所メモ

別子銅山の製錬技術の近代化に伴い製錬所は沿岸部に移動してきます。広瀬記念館での展示を含めて書いておきます~。

旧別子時代・明治1~明治20年。

立川製銅所 明治1年(1968)<マイントピア別子の川沿い>

高橋製錬所 明治14年(1881)<東平よりももっと山奥!>

新居浜時代・明治21~明治36年。

新居浜惣開製錬所 明治21年(1888)<日暮別邸のあたり>

四阪島時代・明治36年~ (昭和51年まで)

四阪島精錬所 明治37年(1904)<新居浜から20キロ離れた無人島だったところ>

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・立川分店

立川分店(たてかわ) 江戸時代以来の物資(別子・新居浜間)輸送の中継場。明治1年(1968)同所に製錬所を建築。(明治2年ともある)

別子銅山記念館とマイントピア別子の間くらいに、立川橋というバス停があって、あの辺りかなぁ!別子銅山開坑より55年早く立川銅山(西条藩)があったそうで、色々ありましたが経営難で1749年に住友家が請負稼業をして経営統合したようです。

立川分店・眼鏡橋.indd

立川分店は、別子鉱山鉄道が出来たこともあり明治24年に惣開製錬所に統合。

・四阪島に関する年表メモ

銅精錬の煙害について、えひめデータベースにまとまってます。

データベース『えひめの記憶』|生涯学習情報提供システム

住友側の対応については、住友金属鉱山株式会社のホームページに記載があります。

環境への取り組みの歴史 | サステナビリティ | 住友金属鉱山株式会社

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明治26年(1893)4つの村(金子、新居、庄水、新須賀)が新居浜(惣開)製錬所の排煙により稲など農作物の被害を県に訴えた。こうして、煙害問題が表面化した。

明治27年(1894)7月、伊庭貞剛(いばていごう)は新居浜の煙害問題解決のため別子支配人を志願。無人島の四阪島に製錬所移転を決めた。

明治29年、広瀬宰平は反対した。反対理由は4つ。①煙害以外にどうする?②新居浜は社会インフラが整っている③開発・移転費用を賠償金に充てるべき④移転しても煙害が広がるかも

明治30年2月、四阪島の着工。

かかる費用は別子銅山の純利益の2年分!なんと四阪島を伊庭貞剛個人が約1万円弱で購入したそう。煙害克服への挑戦 煙害克服への道 ページ1

<参考:明治33年(1900) 足尾銅山鉱毒事件・川俣事件>

明治37年(1904)12月、四阪島の全ての工事が竣工。

明治38年(1905)四阪島の煙害が発生。

別子銅山記念館の神社にある四阪島のモニュメント

四阪島煙害は、他の4郡に拡大。5月に調査をするが煙害の声は大きくなっていった。

除害施設に力を入れる鈴木馬左也。その場しのぎではなく真の解決となる「煙害の根絶」を目指した。

①農鉱併進の精神を基調とする ②被害調査は農商務省に一任する ③契約期間内の賠償金を予約して支払う(M41~M43は賠償金239,000円、M44~は毎年77,000円を農民側に支払う) ④操業上の制限をうける

(インターネット情報によると、明治40年に別子・足尾・生野などで暴動・ストライキ発生)

明治42年(1909)尾道会見。住友側「合意しなかったが、相手の気持ちと精神をよく理解できたことで論点が明らかになった。1つの目標に向かって関係者が心を合わせて努力することが必要。立場や考え方が異なっていても、お互いを理解し合う努力をすることでその目標に近づく」のような内容が残っている。

日暮別邸 内部(写真OKの場所)

明治43年(1910)煙害協議会。

大正14年(1925)外国人技術者を呼んで無害化技術。1930年に世界初の大規模施設として完成。

四阪島の大煙突の大きさが分かるモニュメント。

昭和14年(1939)協議会にて四阪島精錬所の煙害問題は解決をみた。

一時金100万円。第1回煙害協議会以来、住友側が農民側に支払った賠償金、農林業奨励金等の合計額は848万円にのぼった。これは個人配分ではなく愛媛県管理の下で行った。農林事業の改善や公共施設など地域発展に使われてきた。

昭和44年(1969)10月、東平製錬所着工。昭和46年6月に生産開始

日暮別邸の外広場から、美しい山と畑、当時の偉い人社宅跡地を眺める

ここまで、私がメモしてきたこと&後からインターネットで調べたことを書きました~。日暮別邸・四阪島の自分メモでした♪

住友の精神論のようなことが展示されていて、別途書きます~。

投稿者: 小野寺 美奈

税理士。農業経営アドバイザー試験合格者。認定経営革新等支援機関。相続診断士。FP。 川崎市・東京多摩地方を中心にした、地域密着・現場主義。 税務の記事はご自身で税法を確認されるか個別に有料相談に来てくださいね。