2024.3某日 東京都東村山市にある、ハンセン病資料館へ行ってきました。
クリックできる目次
・ハンセン病資料館
西武池袋線に乗って、清瀬駅へ。そこから西武新宿線の久米川駅行きのバスにて。
資料館内には映像コーナーがあったり図書館があったり、かなり充実しています。
偶然にも学芸員さん解説がある日だったので、時間調整して参加してきました。
・ハンセン病を乗り越えた今
ハンセン病は、私の浅い理解ですが、慢性感染症の一種なのだそうです。現在の栄養状態・衛生状態では、感染したとしても発症する方はいないそうです。この数年、日本での新規患者数は0人~1人とのこと。
Wikipediaに書いてあったけど、①遺伝しない②感染力は弱く、発病は稀③薬と通院で完治する
ハンセン病について|国立ハンセン病資料館 (nhdm.jp)
少なくとも日本では乗り越えた感染症のハンセン病ですが。(発展途上国ではまだハンセン病はあるみたい)。
その歴史はとっても重要なことがありました。(詳細は上記の資料館のホームページ)
・コロナ、ハンセン病、結核の感染者数
コロナ・ハンセン病・結核の患者数を比較してみました。
①コロナウイルス感染者数等
2020年頃に世界的に感染流行したコロナウイルス感染症。(現在も続いている)
コロナウイルス感染で日本国内の累積感染者は令和5年(2023年)4月までで約3300万人。日本国内の死亡者は、令和5年4月までで累計約75,000人。
同月までに世界では7億6000万人ほどがコロナウイルスに感染し、世界中でコロナウイルス感染で690万人が死亡しています。
感染初期はコロナ陽性者の一定期間の隔離(保健所の管理下) → 国民のワクチン接種が一通り終わった頃から自宅隔離(管理しきれない) → 5類へ移行(コロナワクチン接種は自費が原則へ)だいたいこんな流れです。
②ハンセン病患者数
ハンセン病患者数、明治33年(1900年)に患者数3万人、その後は下降しています。ハンセン病は、合併症などで亡くなる方はいますが、罹患が直接の死因になる方はほぼいないそうです。IASR 39(2), 2018【特集】ハンセン病 (niid.go.jp)
浮浪患者のみ強制隔離 → 患者はすべて強制隔離 → 治療薬が出来た、感染事情も分かった → 感染源とならないのに退所者少ない(偏見・差別もあり一般生活が困難)という流れのようです。
③結核 患者数等
昭和9年(1934年)の結核患者は131万人で、10%の13万人がその年に死亡しているようです。1952年までは日本の疾患別死亡者数ワースト3位までに入っていました。
結核患者は一定の隔離期間経過後は退院して通常生活を送っていたのに、どうしてハンセン病患者は退院できないのか、という疑問があったようです。
結核は感染者が多すぎて隔離しきれなかった(工場内でかなり感染したみたいです)のでは、という意見をどこかで聞きました。
・江戸時代までのハンセン病
奈良時代だったか忘れたけど、かなり前から日本にハンセン病はあったそうです。海外でかなり流行したようです。
ハンセン病罹患者(発病者、の方が正しいのかな)とそれ以外とでは食事処を分けていた、そういう絵が資料館にはありました。(見た目でわかる症状が出た方を分けていたのかもしれない)
2020年頃に世界的に感染流行したコロナの時、コロナ感染者は感染させないように食事を分けたわけだけど、それと同じに見えました。
このように、明治維新前はハンセン病患者は多少の棲み分けがありつつも共存して暮らしていたみたいです。
治療薬が出来るのは昭和になってから。それまでは(鼻水などの粘液で?)感染するので住まいを分けていたことがあるようです。栄養状態が悪い貧困層の方が感染しやすかったし、発症した子供を棄てたりしたことも多くあったかもね。。
仏教が入ってきてからなのか、前世で悪いことをしたから病になった(善い行いをすべきだ)、と考えられたり、一家の穢れだと考えられたりなど、事実とは異なる恐れられ方をしていたようです。昭和になっても、病名を告げられたら一家心中するケースもあったと。。。
母親が発症した子供を連れて遠く四国までお参りに行く姿も多くあったみたいです。
ハンセン病資料館の入り口に、母子像がありました。読んだとき、悲しかったです。
遠路なので行き倒れになることもあったようです。お参りすれば治ると信じ、苦労を厭わない気持ちを考えると・・・・。
いったい何だったんだ。治療薬が確立してハンセン病感染を乗り越えた今、当時の状況を考えると、複雑な気持ちになります。。。苦労の無い時代に生まれて、このような犠牲を過去の話で片づけてはならないな、と思いました。
・開国とハンセン病
明治維新前後、ホームレスのハンセン病患者は寺の裏あたりに、縄文式住居のような小屋を作って集団生活をしていた写真がありました。(身延の寺だったかな?)
明治維新後、外国からの視察団を視野に入れ、そのようなホームレスのハンセン病患者を強制的に療養所に移住させたようです。救済、保護、という表現も目にします。
海外から見て日本が野蛮な国だと思われたくなかったから、という記載がありました。
外国から日本に視察に来て、寺の視察の際に放浪者から金銭を物乞いされてハンセン病に感染させてしまったら困る、という国家戦略だとしたら、私は分からなくはないけどな。
・ハンセン病問題の簡単な年表
ハンセン病の話に戻し、
1889年(明治22年)にフランス人宣教師が静岡県御殿場市に神山復生病院を設立したのが最初の療養所だったそうです。
1907年(明治40年)にハンセン病の療養所設置の法律が出来た。
(当時はらい病という名前だったが、単語が独り歩きをし差別的になったため単語を変えたとのことです)
1931年(昭和6年)、隔離対象は浮浪者のみだったのを自宅療養者も隔離対象とした。「無らい県運動」と呼ばれる患者強制収容を奨励する運動が始まってしまう。
患者、家族への誤った偏見による攻撃があったようで、悲しい事件が多発する。明治初期の実話を元にした作品「高橋お伝」も夫がハンセン病設定のものがあるようです。(夫への献身と、それが報われない悲しい芝居・浪曲だとか)
1941年頃から、世界ではハンセン病の治療薬が確立。
1953年(昭和28年)新たにらい病予防法が成立、世界と逆行して強制隔離が続けられる。
1996年(平成8年)らい病予防法が廃止、強制隔離がなくなる。
2001年、国敗訴。異例の控訴せず、被害者へ謝罪。
2008年(平成20年)ハンセン病問題基本法が成立。
・主に療養所生活について備忘
ハンセン病のワクチンは令和6年5月現在も無い。
ハンセン病の感染菌のらい菌と接触しても95%は自然に菌を防御するようだった。
結核と異なり、ハンセン病が原因で亡くなることはほぼなく、神経障害の合併症で亡くなることはあったみたい。
断種手術を強制されたこともあった(男女別部屋の入所者間に子供が生まれたことがあり、男性に断種手術を条件に女性部屋へ通い婚を許可した、という経緯があったよう。1915年)。子供が生まれない(子供を作る・育てる自由や環境がない)ことがほぼ。(初期の頃は光田医師が私財で里子に出すなど対処、数が増えて支援継続が困難に。療養所内の学校もあったが。)
治療方法が確立する前に罹患した方は、ハンセン病が治癒した後(という言い方で正しいのかな?)も後遺症が遺るケースもあった。
身内がいないなどの理由で療養所で生涯を過ごすを選ぶ・過ごさざるを得ないがほとんど。
お揃いの着物を着せられ、療養所から出てもすぐ分かるようにした。
療養所内の通貨(印刷した紙)を使わせた。
病人なのに作業があった(畑、工事、売店、病人の世話、火葬の支度など)。
名前は本名ではなく仮名を選ぶ人・選ぶように言われる人が多かった。
部屋は大部屋で、夫婦の部屋が出来るようになったのはかなり後の事だった。
治療の後、仮に療養所を出ても差別があるため仕事や生活ができなかった。風評被害のため家族の元へ帰宅することを諦める人が多かったようだった。
家族からの仕送りがある人もいた。
売店にはタバコも売っていた。
患者が役者となり歌舞伎舞台や患者同士の相撲大会を行い、地元の人が多数見に来ていた。
****
ハンセン病から当時の社会情勢を学びます。続く