陸軍登戸研究所 資料館へ到着。小学校の3クラス分ほどの広さの展示に、2時間では足りなかった。第一・第二展示室から順番に見ていったよ。
※館内では一部写真NGのものがあるので気を付けています
もともとこの辺り一帯は、移民のための小さい学校があったくらいでほかに建物はほとんどなかったみたい。都内の軍事施設の分室としてここを選んだ。小田急線が通っているし、敵国からノーマークだったからなんだって。
南武線・登戸駅から引き込み線を作って陸軍登戸研究所までの電車を作ろうとしたみたい(三菱UFJあたり)だけど、やめたみたい。当時は、生田駅から研究所までの道が整備されていないから、職員さんたちは向ヶ丘遊園駅(当時は稲田登戸駅)から通勤してきたんだって。
遊園駅周辺には、今も当時の職員さんが住んでいた寮が残っている。川沿いの歯医者さんあたりの建物がそれだ。
ダイエーも登戸研究所の分室だったみたいね。地域の過去についても一部展示があった。当時は戦時中だから、今のような「平和な」収用ではなかった。
この建物は、細菌兵器を研究開発していた場所。日本は戦争に負けて、玉音放送を聞いたら大至急、証拠隠滅をはかったんだって。この研究所も、書類やブツは処分したけど、建物は残ったんだ。
この土地は、終戦後GHQに抑えられ、その後5年間だけ慶應義塾大学に貸し、明治大学が買い取ったみたい。
明治大学は、かつて生物を壊すための研究をした場所で、農学部の学生さんたちに研究を教えたんだ。立派だよね。
陸軍登戸研究所は、天皇の勅命という形で作られたりと政府の力の入れようがすごかったみたい。普通に戦ったんじゃ、勝てないと当時からみんな思っていたんだ。
ここで行われていたであろう研究は、秘密裏に行われていたみたい。
生物兵器、風船爆弾、ニセ札つくり、スパイ用品などの研究が行われていた。小説みたいだよね、70年前、うちから歩いて25分のこの場所で、地元の人がたくさん働いていたんだ。もし、生まれ変わりがあるなら、私が働いていたのかもしれない。
風船爆弾を研究し、実際に千葉県一宮、茨城県大津、福島県勿来(なこそ)からアメリカに1万発を放球した。アメリカに届いたのは361発と言われていて、ピクニック中のアメリカの子供が無邪気に触ってしまい、6人が犠牲になった。
当初、風船爆弾の中に生物兵器を仕込んでアメリカの家畜の牛を病死させることを真剣に研究していたらしい。国際法や報復を考えて、やめた。生物兵器の人体実験には、侵略先の国で行われた。戦争の前には、文化を教えてもらったり仲良くしていたのに。人は信じちゃダメか
爆弾を放球したり生物兵器を開発したらたくさんの人が犠牲になることが分かっているのに、「戦争を放棄させるためには仕方がなかった」という気持ちを読むと、とても複雑な気持ちになる。何が正しいことなのかと
風船爆弾の作成には、和紙とこんにゃくが使われたんだって。こんにゃくってあのこんにゃく!
日本から太平洋を渡ってアメリカ本土に届くまでに、ここで冷却するからこうなって・・・と綿密な研究が行われていた。その気球の温度変化の関係で、こんにゃく糊がベストだったとのこと。
すごいね。「こんな素晴らしい研究をぜひ平和利用してください」と、来訪者ノートにあった。
こんにゃく糊を扱う作業は、女学生たちが多く使われたみたい。
手先が器用であったのと、もう中学生くらいの女学生すら軍需工場で駆り出さなければならないほど、戦況は悪化していた。
焦りもあって、大至急仕事させるため、長時間労働できるように麻薬の支給もあったとのこと。
「娘の身売りは村役場へ」という写真も残っており、従軍させられた女性は日本「にも」たくさんいたはず。何を騒いでいるのか、よく分からない。
資料館内 後編へ続く
(過去記事)陸軍登戸研究所 序章 → https://mina-office.com/2017/03/16/noborito-kenkyujo-1/
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