陸軍登戸研究所 資料館・後編

陸軍登戸研究所 資料館内前半の続き。

陸軍登戸研究所 資料館へ到着。小学校の3クラス分ほどの広さの展示に、2時間では足りなかった。残りの第三~第五展示室まで見てきた。
※館内では一部写真NGのものがあるので気を付けています

資料館内

(過去記事)陸軍登戸研究所 序章編 → https://mina-office.com/2017/03/16/noborito-kenkyujo-1/

陸軍登戸研究所では、生物兵器も作っていた。電波的なもので通りかかる人間を殺傷する兵器を目指していたみたいだった。結果、小動物を殺傷してしまうほどの兵器が出来上がってしまった。

第三展示室 軍用犬ほか

軍用犬の方向感覚を狂わせるための毒物や、人間を直接殺傷するための生物兵器も作ったみたい。
そして、人体実験はここ、登戸研究所でも行われたようだけど、多くは中国・ハルピンの731部隊へと送られたものが多かったんじゃないか。「マルタ」がたくさんいる、ハルピンへ。
明治大学生田キャンパスの正門裏手の立派な動物慰霊碑は、人体実験により犠牲になった捕虜などの慰霊碑も兼ねていたのではないかという話もある。だから、あんなにお金をかけたのか、と。

ここでは、学者のほかに、近隣住民が工員などとして働いていて、「危険手当」としてお給料を割り増してもらっていたみたい。精神的な慰謝料・口止め料の意味もあったのでしょう。

簡単に攻略できると考えていた日中戦争は、長引く。人口が違うのだから、肉弾戦では勝ち目がないので、経済的に有利にたって戦況をたてなおし、早く戦争を終わらせたかったことが分かるね。

走り出したから、やめるわけにはいかなかったのか。

「通貨戦争」なんて、今でもやってるわけだけど、当時は日本軍が軍票を発行したりして侵略された国の経済は大混乱したんだよね。

軍票とは、ジャイアンがノートの切れ端に100円と記載して、お金だと主張し100円と書かれた切れ端を渡す。これが軍票。そしてのび太に100円の商品を100円ではなく軍票を対価として売らせる。ジャイアンは戦争に負け、100円の軍票は換金されず、のび太泣き寝入り。こんな感じ。(西南戦争の場合にはほぼ泣き寝入り。太平洋戦争では補償金やODAという形をとっているという主張もあり)

登戸研究所では偽札を研究したものの、まったくムダに終わった。当時の偽札を見たけど、とてもお粗末で、現在の途上国が作成する模倣品レベル。本物のお札を見せないで、やっつけ仕事させたのかな。

今、皮肉にもそのやっつけ仕事のような成果もあったのか、日本の紙幣の技術は世界レベルになる。

通貨戦争と偽札

当時の暗室が残されている。当時は、外の光を遮る技術がすごかったみたい。ここで、ニセ札やスパイ用品関連、生物兵器が作られていたのだろうか、と。

暗室

戦局はどんどん悪くなり、空襲も多くなり、東京への地上戦もありえることから、政府は首都移転を検討するようになったんだって。知らなかった。

朝鮮人に強制労働させた極秘の地下壕

天皇・軍・政府は長野県にひっそりと移ろうとして、極秘の突貫工事で地下壕を朝鮮の人々に強制労働させていた。

もともとは、自国が侵略される側になるのは嫌だ、東アジア・東南アジアで団結して西洋に立ち向かおう!リーダーは日本がやる!という趣旨が「大東亜共栄圏」だったはず。それがいつの間にか仲間であるはずのアジア人を奴隷扱いするようになり、それが常識になっていた。私はそれを見るたびにとても悲しい。

首都移転計画

1990年代に、サリン事件や神戸の地震などで東京に首都機能が一極集中していることが問題視され、首都移転を検討していた時代があったんだよね。
ウィキペディアによると、当時の石原慎太郎都知事が反対を表明して当選、首都移転の議論の情熱は去った。
でも、郵政や地方厚生局などの一部の本部(?)は東京近郊へ移しているよね。
まぁでも、築地市場の移転でこんなに揉めるんだから、首都移転は無理でしょうね。

そして、日本は戦争に負ける。

当時、それが家族や国家のためと信じていたとはいえ、随分ひどいことをやった。「責任者」は戦犯として裁かれた。でも、登戸研究所関係者と731部隊の関係者は、責任を免れた。

なぜなら、その生物兵器の情報を戦勝国が欲しかったから。

 

終戦後、日本で「帝銀事件」という事件が起こる。

帝銀事件 捜査打ち切り

銀行で、「赤痢ウイルスの予防薬だから飲みなさい」と言われて、信じて飲んだ銀行員が死亡した事件。
サリン事件を思い出す。
銀行員が疑いもなく飲んでしまったことから、当時、無味無臭で捕虜が疑いなく飲んだ生物兵器を研究していた登戸研究所・731部隊の関係者が犯人ではないかと疑われた。
でも、見えない手で捜査は打ち切りとなった。

第五展示室では、来訪者ノートがあり、パラパラとめくる。

遠くから来ている人もいたり、社会科見学の帰りに小学生が書き込んだり、大学生が研究の一環で書き込んだり、年配の方が自身の戦争体験を書き込んだりしている。

「いま」の気持ちが書いてあって思いが伝わるように感じる。こういうのは、やはり文字なんだよね。

16時の開館時間、足早に資料館を出た。

帰り道、弥心神社を通りかかる。

登戸研究所で働いていた人たちは、ここで何を願ったんだろうね。誰にも言えない、与えられた自分の職務をまっとうすることについて、どう思っていたのだろう。

自分が、「これはよくない」と思いながら、命令通りに職務をまっとうする人は今も、いる。どうする?どのラインまでならやる?そのラインを越えたらどうする?発言をしたら仕事を失うよ?仕事を辞めたら、その後家族はどうする?

違和感を抱きながら、給与所得者だから指揮通りに働く、それが正しい労働者の在り方だと思う。そして問題は白日の下にさらされ、社会問題になっている上場企業はたくさんある。心情面において、なにが、登戸研究所で働いていた人と違うのか。

登戸研究所跡碑
登戸研究所跡碑句

昭和63年「すぎし日は この丘にたち めぐり逢う」 碑句が建立された。

当時について語ることは、相当の勇気が必要だったのではと思った。

現場で、当時の空気を感じて、加害者である日本人が苦悩する状況を、見る。

平和とは、なんだ。

 

投稿者: 小野寺 美奈

税理士。相続診断士。FP。 川崎市・東京多摩地方を中心にした、地域密着・現場主義。 税務の記事はご自身で税法を確認されるか個別に有料相談に来てくださいね。

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