2025.6.27 中野陣屋・中野県庁跡地に行ってまいりました。
中野騒動を勉強してきました〜。凶作と通貨切り替えで苦しんだ農民は、世直し一揆を余儀なくされた。けど、暴徒化してしまった。
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・短命だった中野県庁
明治維新・廃藩置県を経て、信濃はいろいろありまして、長野県になりました。
わたしは長野県庁で「信濃の国」の歌詞を見たり、長野県の歴史に触れたりしたことがあります。
明治維新の後、最初は伊那県だったけれど、範囲が広いから北部を中野県(旧幕府領がメイン)へと分県、松代藩・松本藩が廃藩置県のため統合、飛騨地方は岐阜県にして、やっと長野県ができた、だいたいこんな感じ?
それで、県庁は信州中野・松本(古の信濃国府があったそうですが)・伊那にもあったけれど、最終的に長野県の県庁は善光寺近くの長野になりました。
長野県庁の候補地、松本は民権運動が盛んだったし、中野県庁はまた燃やされたら困るし、言うことを聞きそうな長野にしたのかもしれません。
個人ブログながら、読みやすくて大いに参考にさせてもらいました。長野県を1つになるまで、県がたくさんあったそうです。 → http://ueda58ki.web.fc2.com/2mokukai/temp_H25/history_naganoken.htm
当時は県民同士で「フンッ(気に入らない!)」もあっただろうなぁ。近くにあった県庁が移動してしまうと、不便だし淋しいもんね。政府とやらが勝手に決めちゃうの面白くないよね。現代だとチェーン店が合併したり統合したりするようなもんかな、マツキヨとココカラファインみたいな?都民銀行と八千代銀行と新銀行東京が合併みたいな?
現場の混乱もだけど気持ちの問題もあるよね。
さて。
中野陣屋・中野県庁資料館。
もともと、織田信長死後の上杉陣屋を初めとすると伝えている、とあります。
資料館のパンフレットによると、明治3年(1870年)9月に県庁となった。同年12月に中野騒動(世直し一揆)で焼失、翌年明治4年6月(閏10月あり)の11ヶ月の(県庁としての)命だった、とあります。
資料館はこじんまりしたスペース。広さは和室で例えるなら6畳くらいかな。
・中野騒動
中野騒動は、1870年の世直し一揆でした。
安永中野騒動 1777年
実は、本チャンの中野騒動より約100年前、1777年(安永6年)にも百姓一揆があり、こっちは安永中野騒動(あんえい なかのそうどう)と呼ばれてます。
資料館の掲示によると、正月、年貢金の期限が3月だったのに正月に繰り上げたことに百姓が怒り、陣屋のある中野へ撤回要求しようと農民が集まりました。割元(名主兼務)の自宅を襲い、家屋を打ち壊した、このほか各地で村名主の家を襲った・・・・。
松代藩兵が約500人と飯山藩兵300人で、首謀者・加担者の探索をしたという。。。
中野騒動は、以前もあったんですね。
中野騒動(世直し一揆)1870年
本チャンの中野騒動(世直し一揆)。1870年・明治3年12月19日。
被害状況
資料館の掲示を続けてみてみます。
年貢の減免、助郷廃止、特権商人の告発などを要求し、途中から加わった数も含めると数千人の農民が集まった。
天領時代の怨恨も重なり、中野県庁を焼いただけでなく県庁役人と門番ら2人を惨殺してしまう。。。松川村は93%が焼失、西町・東町どちらも70%超が焼失している。。。640軒あまりが焼失した。
年明け、官軍の佐賀藩兵や松代藩兵ら1000人近い大部隊が中野へ、600人余りの容疑者の中から28人が死刑、120人ほどが徒刑(労役刑)に処された。
拷問のため、膝に置く石や竹のムチが保存されている・・・。
窮乏を訴えたのだが
中野騒動の経緯の切り絵があり、すごくわかりやすかったです!
中野騒動に至る原因は、窮乏でした。
天候不順、水害などで凶作が続いた。米価を中心とする諸物価の高騰などにより、特に農村が窮乏化した。
資料館にはなかったけど、経済環境が悪化し、貨幣システムが悪く作用していました。
農民は、中野県が割り当てた「金納年貢」の〇〇(私の手元の写真で判読できず)と年貢類似の割当金の新設で中野県庁に減免の訴えをしたけれども聞き入れてもらえなかった。
農民は、自分たちの生活だけが特に苦しくされていると感じ、決起して中野県庁を襲撃する計画を立てた。
中野騒動の結果、一揆の要求のいくつか(年貢減免、助郷廃止など)の証文を農民が得て、収束に向かったそうです。
経済システムも悪くて
インターネットで深堀りしていくと、凶作でコメがないという悲惨な状況の他に、明治維新のため、通貨切り替えの換金と藩札の流通禁止がうまくいってなかった。贋金が出回ったり・・・・。
戊辰戦争のお金を税金で徴収する必要があったこともあり、流通銭は暴落していたのでした・・・。
松代・中野騒動と民衆 長野市デジタルミュージアムより →
https://adeac.jp/nagano-city/text-list/d100050/ht000140
地域のこと考えてくれなかった
中野県庁は農民の生活を考えて譲歩してくれなかった。生きるための暴動が中野騒動だったことがわかりました。
あとから便乗してきた農民もいたようです。
県庁を燃やす、というのがショッキングすぎて、私にはやり過ぎな感じがするけど・・・。
中野町付近は旧幕府領を明治政府が接収したこともあって、地元の役人ではなくよそから来た人が役人だったんだっけ。
このあたり、有力な殿様が強く支配していたわけではなく、ほどほどの殿様が点在していたという感じで、地元の人が協力し合って生活していたのかもしれない。
地元農民のこと分かってる人が役人(地方自治)をしていれば、よかったのかなあ?
近隣の一揆成功体験と被害者
前月の11月に松代騒動があり、一揆成功の余波でもあったのです。須坂騒動に続き、俺達もやろう、となったのかもしれない。
再掲 松代・中野騒動と民衆 長野市デジタルミュージアムより → https://adeac.jp/nagano-city/text-list/d100050/ht000140
世直し一揆は大きくなっていき、松代騒動では、川中島のまちを通りがかりに炊き出しの要求をしたそうなのです。行きは宿と飯と酒を差し出してあげたら出ていったけれど、しばらくすると物やお金を略奪していくようになったとありました。
被害者の職業は旅籠(はたご)・呉服屋・茶・材木屋・穀屋・酒造などさまざまであったが、攻撃対象になった理由は、贋金によるもの(チャラキン連中)が二七人と多く、このほかに高利貸し・質貸し・酒造・岡っ引き・産物取締り・役人など仕事上で日ごろから悪評の高かった人びとで、なかには一揆勢に炊き出しをしなかったり、酒を振る舞わなかったりしたことから打ちこわされた人もいた。
打ちこわしの被害者のうち、悪どく稼いでいた人たちには同情しないんだけど、旅籠屋だの材木屋だのは可哀想な気がしました・・・。かなり稼いでいたからなんだろうな。最終的には政府や藩士からのカンパがあったけれども、被害は取り戻せなかった。
・暴徒化する民衆
世直し一揆のはずが、暴徒化していったんだ。
町田の武相困民党もそうだし、三池労働争議もそう。太平洋戦争もそう。安保闘争のような学生運動もそう。
発端は理解できるんだけど、だんだん行動が過激になっていき共感が得られくなっていく傾向があると思いました。
団体心理って抑制が効かなくなるんだなぁ。そして、誰も止められないんだなぁ。
こうなってしまう前に、制度を整えないといけないし、民衆側が冷静に判断できるような教育を整えたらいいなと思いました。
