足尾銅山公害 新聞記事より@環境汚染と農地

2020.10.29 そういえば、と図書館で足尾銅山について昔の新聞縮小版で調べてきました!

昭和47年4月3日。80年にもわたる鉱害は、足尾銅山のせいだったのではと。

「犯人は足尾銅山」の見出しがドキッとします~。

古河鉱業足尾鉱業所と足尾製煉所からの鉱毒が(渡良瀬川を経由して)水田と用水路に流れ、明治23年以来、流域農民が約120億円もの農作物被害を被った、との主張です。

毎日新聞の昭和47年(1972年)4月4日(火)の新聞の注によると、

*****以下、引用******

犯人は足尾銅山

明治11年初秋の洪水の時に魚が死んで浮き上がり、この水に浸かった農民の指のまたがただれる異変が起こった。洪水にあった沿岸の田畑から作物がとれず、被害地域は利根川流域にまでおよび、栃木・群馬・埼玉・茨城・千葉・東京も巻き込んだ。

明治24年当時2000ヘクタールほどといわれた被害農地は明治30年頃には40,000ヘクタールにまで拡大した。

鉱山の周囲23.4平方キロメートルが裸地となり洪水がたびたび。鉱毒被害地の損害は当時年額にして約1000万円、農地を奪われた農民は50万人と言われている。

(古河鉱業の操業停止要請について言及。中略)

明治24年に栃木県選出の田中正造代議士が議会に質問書を提出。

明治29年・30年の大洪水で被害はさらに広がり、農民は退去して上京したのをはじめ警察と衝突事件までおこし、田中代議士は議員を辞職し、天皇に直訴した。

以来80年、我が国の”公害の原点”とされながらも、原因者を断定するキメ手がなく、現在にいたっていた。

*****引用、ここまで*****

足尾の町と渡良瀬川(2020年8月30日)

それから約2年後の、昭和49年(1974年)5月11日(土)の毎日新聞を見てみます。

あっさりと古河鉱業は被害者農民への補償調停の押印をした、と書いてある。補償額総額15億5000万円!!

「今回の調整申し込みをしたのは、渡良瀬川下流の群馬県太田市の毛里田の農民971人に過ぎない」と毎日新聞は書いている。

「明治、大正、昭和の三代、80余年にわたり企業のエゴと農民の苦悩の歴史を刻んできた足尾鉱毒公害史に農作物補償問題に限り、一応の終止符が打たれた。」

と毎日新聞は書いている。

*****

短い文章だけれども記者の記事の作り方から主張が読めてくる。当時の国民感情を推測できそう。

農地は汚染されると、農作物が出荷できないよね。その汚染が除去されたとしても消費者の脳裏から除去されるには時間がかかる。

農作物は食べ物だから、良くも悪くも体に蓄積してしまう。だから、安心して食べられる農作物を維持するためには、環境汚染に気をつけるのはもちろん、農地に制限をかけないとならぬのです。

篤農家さんだけが頑張っても、水が汚染されていたら農地も汚染されてしまうんだと、意味が無いんだね。

農地を守らなければならぬ。

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よっし、足尾町に現地視察だ~♪足尾のおばちゃんらに会って、トロッコ列車にも乗るどー!(´▽`)

(関連過去記事)足尾銅山さんぽ → https://mina-office.com/2020/09/01/ashio-dozan-sanpo/

投稿者: 小野寺 美奈

税理士。農業経営アドバイザー試験合格者。認定経営革新等支援機関。相続診断士。FP。 川崎市・東京多摩地方を中心にした、地域密着・現場主義。 税務の記事はご自身で税法を確認されるか個別に有料相談に来てくださいね。