2025.3 小田原攻めから考えた・調べたことをまとめます~。
思いがけず急激な変化が発生して時代の読みミスってあるので、冷静さも必要だなと思いました。食糧確保は絶対条件!
・まとめと関連
今は2025年、終わってみればなんとでも評価できますので気楽です。
貨幣って何かと交換できなければ単なるモノだし、埋蔵資源は枯渇する日が来るし、兵士は平和になると失業する、ということを思いました!を書きます。
時代の流行があって、ある程度は流行にのって儲けたい(鉱山開発や貨幣取り扱いなど)・話題に入りたい(当時話題のサムライへの転職とか?)という気持ちはある!
流行は追ってもいいけど、ほどほどがいいわね♡
たとえば、トランプ関税で株安で心配になっちゃうけど、長期的なものか一過性のものかの判断をしたいですね。自分の予想が外れても生活に影響ない範囲の投資がいいですよね~。
関連過去記事 → 小田原攻め 小田原攻め 一夜城で戦意喪失 北条五代 | 小野寺美奈 税理士事務所
・情報戦はほどほど・・・・
小田原攻めで敗北した北条氏は情報戦に負けた、という見方もあるかもしれませんが、時代の過渡期に読み切れなかったのはしょうがないんです。
歴史から学ぶことってたくさんあって有意義だなと思います。知識は集めたものが勝ちではなくて自分に有用な情報を使えればいいんじゃないの。
インターネットが急速に普及して、思いがけない悪用があって。
「情報さえ集まれば勝てます!お金ください」はもう流行が過ぎたように思います。インターネット検索をすると、最初にAIがまとめた文章を出してくれるけど、私はまだ信じてない。
情報の取捨選択がインターネットなのだけれど、情報ありすぎて疲れてる・・・・。便利だけど、知ってますコンテストみたいになっちゃってるなぁと思う時あります。
デジタルデトックスとかいう言葉があって、インターネットと切り離した時間を持つと心身にいいよという意味で使われるようです。SNSずっと見てたら疲れちゃいます。
流言があっても、信じちゃうよね。そればっかり流れるから真実だと思っちゃうし、誰かに確認することがない情報もあるでしょ。
SNSって有益な使い方があるのでしょうけど、私にはフィットしてないです。
なんか話が脱線してきましたが、北条さんは時代の過渡期だったから世の流れを読み切れなかったのはしょうがないんよ!情報は、ありすぎても読み切れないんよ。
・太閤検地
豊臣秀吉の兵農分離政策。
太閤検地(1582~1598)を行って課税標準を確定させ、畑を測って年貢米の取り立てをした。人事の把握も一緒にやりました。農民一揆を恐れて農民から刀を取り上げました。職業選択をゆるく奪いました。浅い知識だけど、だいたいこんな感じの理解でいいのかな。
国税庁HP 税金クイズ 太閤検地 → https://www.nta.go.jp/about/organization/ntc/sozei/quiz/1104/index.htm
・戦国大名の鉱山と貨幣
兵隊が農作業をしなくて済んだのは、農民から取り立てた年貢米がたくさんあったからなのと、貨幣の利用が進んだから?
16世紀以降、戦国大名による鉱山開発により金銀貨がつくられた。織田信長は金・銀・銭貨の比価を定め、豊臣秀吉は天正大判などの金銀貨を製造した。徳川家康は金銀山の支配を進め、貨幣製造の技術・体制を整備し、1601年慶長金銀を発行した。その後、江戸幕府は、寛永通宝を発行し、金貨・銀貨・銭貨による三貨制度が整った。
貨幣博物館 日本貨幣史 → https://www.imes.boj.or.jp/cm/history/content/
造幣局HPより 子供向け 日本の貨幣の歴史 → https://www.mint.go.jp/kids/history
織田信長あたりから鉱山をゲットして改めて貨幣を作ったと知りました。
明治維新の後、鉱山は人材と資源を消耗して稼ぎまくるわけですが、資源はほぼ枯渇し残ったのは公害だったりしました。小田原攻めは1590年、明治1年は、1868年です。
1860年までに、日本の金(ゴールド)が割安だったため、日本国内のゴールドが海外に大量に流出した。海外で売れば3倍だったっていうの!なにやってんのよ。
貨幣は、昭和17年(1942)に金本位制をやめて、紙幣は金と交換できなくなり、管理通貨制度に移行しました。貨幣博物館 → https://www.imes.boj.or.jp/cm/history/content/
だんだん貨幣経済の理解が難しくなるんだけど、貨幣紙幣は、信用で成り立っているだけだ、ということだけ理解してます!
・年貢米
究極的なところ、貨幣でも紙幣でもゴールド(金)でも、食糧と変えられるか?なのだと私は思います。
米穀機構 米ネットHP 米が貨幣代わりになった → https://www.komenet.jp/bunkatorekishi/bunkatorekishi02/bunkatorekishi02_5
太閤検地で米の生産量が上がったと、インターネット上には書いてありました。農家がやる気出したからコメの生産量が上がったとはいえないのでは。
①年貢取り立ての過程で横取りが減った②農民が備蓄のためにこっそり隠しておいた③収穫量に関係なく畑の大きさで年貢がかけられたから必死で作った、これらの条件が重なって権力側が把握できる米の生産量が増えたなのかな、と思いました。
不作の年はどうしてたんだろう?
暑すぎたり冷夏だったり、米が不作の年は近所も米が不作ですので、貯蓄がない農民は泣く泣く娘を売り飛ばし(NHKドラマの「べらぼう」みたいな・・・・見てないけど)・・・が本当にあったかもしれないなぁ。
取り立てる側は毎年一定量の年貢米が確保できるけど、農民にとってベストではなかったのでは。
豊作の時はお米が農民の手元に多めに残るからいいけど、近所でも豊作だから換金しても安い取引金額ですわね。そうすると、貯蓄になるのかしらね。
あと、お金で常備軍が確保できるから兵農分離はよかったかもしれないけど、この後、戦国時代が終わるので農作業が出来ない兵士たちは生活苦になる・・・・。