長崎の出島 鎖国下のオランダ貿易と国際的影響を知る

2026.5.12(作成日6.6) 長崎県の出島を観光してきました~。今更だけどレポ書いとこ。

出島は、そういえば教科書で何か見たな、テストに出た、程度のあやうい記憶なので、学びなおし!

【公式】出島〜dejima〜

・出島 上陸 1100円

出島では、修学旅行生がグループ行動していて、「もぅ!男子っ!」の女子中学生をちらほら見かけました。( ̄ー ̄)ニヤリ

熱心に展示を見たり、楽しそうにはしゃいだり(これ大事!)、お行儀良かったです。

出島は、駅名やバス停名にもなっています。観光地・出島は長崎自動車株式会社が運営?していて、1100円で購入した出島入場券によると国指定史跡「出島和蘭商館跡」とあります。

普段よく手にする紙のレシート形式の出島入場券で、購入日翌日までに限り、ココウォーク観覧車が無料で利用できます♡(バスや路面電車で移動が必要だけど、500円分トク♪)

出島の本が700円で販売していたので買います。レジ袋は10円だけど独自プリントしてるレジ袋は記念で欲しいので!お土産として買いました。(こうして増えていく記念レジ袋。あるよね)

出島のことが良く分かる資料でした。長崎市が作成。

・出島の歴史

出島は1636年生まれの人工島です。

出島は、キリスト教布教を禁止した徳川幕府がポルトガル人を収容するために作ったとあります。

その後、日本とポルトガルとの関係が悪化し、日本渡航が禁止され、出島は一時期無人だったそう。その後、ポルトガル人に代わって出島に居住するようになったのがオランダ人でした。

この頃、長崎の海は、長崎のポルトガル、平戸のイギリスとオランダ、中国、日本(朱印船で主に東南アジアへ)の激しい貿易戦争があり、

イギリスが赤字で最初に撤退。東洋貿易で遅れをとったオランダは台湾事件でヘマしましたが、1637年の島原の乱で幕府へ忠節を示して信頼獲得、日本との貿易を独占することになりました。

1641年に幕府はオランダ人に平戸から出島へ移転するように言いまして、出島が大いに活躍することになります。

当時の出島では出入りが監視され、こんな狭い人工島でオランダ人は待ち時間が多くてヒマだったようですが、貿易で儲かるので我慢してたみたいです。(ちなみに、同時期に貿易していた唐人居住地は近くにあります。こっちは陸続きです)

1859年に出島は役割を終えました。幕府が鎖国を維持できず開国をしたからです。

オランダ船との出会いは1600年のリーフデ号の漂着が始まり。関ヶ原の戦いは1600年、徳川家康は外交顧問で2名のオランダ人と仲良くしています。こちらの2名のうちアダムスさんは三浦按針と改名されました。

・出島の輸出入(江戸時代の鉱山輸出)

出島は江戸時代のヨーロッパへの唯一の貿易拠点でした。(中国、朝鮮とのお付き合いは継続)

出島の貿易の最盛期は元禄期、輸入は生糸、砂糖、薬品、香料。

輸出は日本の銀、金、銅などだったそう。資料によると、1698年のオランダ貿易の取引額の75%が銅でした。(出島でビデオも流れてた)

1715年、幕府は正徳新令を発布、来航船舶をオランダは1年間に2隻に制限などして(銀の貿易額を3000貫以内)、出島の貿易は次第に衰退していったそう。

<おのでら:鉱山は栄枯衰退あり、鉱物が採りつくされ次の鉱山を見つけ、という歴史がありがちです>

ちなみに銅は大坂で精錬されて長崎に運ばれていたけれど一時期は長崎で精錬されたこともあるようです。

出島の資料にはなかった気がするけど、輸入の対価は銀だったようで、日本から鉱物が外国に流出しまくりでした。もったいない~。日本の鉱物は良質だったらしいので貿易を取り扱う外国が転売で儲かったかもね。なにやってんだ。

現代のふるさと納税かよ。

徳川吉宗の洋学解禁をさかいに蘭学ブーム、向学心に燃える人々が長崎にやってきたそうです。

・糸割符制(いとわっぷ)1604-1655

出島の資料を読んで私が理解した糸割符制度の流れは下記です。

①入港予定のオランダ船がすべて入港したのを見届ける

②生糸の値段について糸割符仲間(京都、堺、長崎、江戸、大坂の5か所の商人)が協議によって価格を決める。(カルテルでは!?)

③一括してすべて商人が買い取る。

記録には、商館長は最高級の生糸60キログラムにつき450グルデン(30両)を希望したものの、3日後に255グルデンに決まった、とあります。

・・・・ディスカウントありきで吹っ掛けられたのでは?笑

生糸の取引が終わると、その他の商品売買が許されたそうです。なるほどねぇ~。

ちなみに、糸割符制度は1655年に廃止されて相対貿易になり、生糸も他の商品と同じように競売になったそうな。(1641年から出島でオランダ貿易始まる)

出島の資料には詳細記載は省略されていますが、

インターネット検索であさ~く調べてみると、糸割符制度廃止の背景がおもしろいです。

秀吉の朝鮮出兵から日本と中国は直接貿易をしなかったので、マカオの生糸の日本への貿易仲介はポルトガル独占で、めちゃポルトガルが儲けていました。

当時、中国商人が日本の糸割符制度の価格決定時の生糸輸出を激減し、価格決定額を上昇させ、価格高騰をさせてから大量に日本に売ったので、日本は糸割符制度をやめた、とありました。

なるほど笑、、、鎖国して自由貿易の制限はいい判断だったかも。

・シーボルト事件

ドイツ人シーボルトさんは、日本に興味を持って来日した、とあります。

シーボルトさんは出島オランダ商館医として赴任、日本人患者にも治療をしてくれて、熱心に日本の研究をした。長崎郊外の鳴滝に別荘を購入し、門人と住まわせ研究の手伝いをさせた。(出島を出て良かったの?)

蘭学、西洋医学もこうして日本に広まったんですネ。

シーボルトから受け取った手紙を決まり通りに幕府に届けた間宮林蔵。幕府は、天文方高橋景保に依頼して国外持ち出し禁止の日本地図がシーボルトに渡ったことを知った!

外国人に日本の防衛上の国家機密である地図を渡したとはならぬ!と当然怒る幕府。<(`^´)>

幕府は高橋景保と門弟にも厳しい取り調べ。シーボルトが「帰化しますんで!」の願いはダメ、日本の渡航禁止で帰国させられる。長崎に妻と娘を残したまま・・・・。

天文方高橋景保は獄死、シーボルト門人らも多くは処罰。

という、シーボルト事件が1828年にありました。

・シーボルト台風

このシーボルト事件が起こった同年の1828年9月に有明海を含む大きな台風があり、相当の人的被害(九州北部で~19,000人もの)が出ました。

昭和の時代の1961年に。この1828年の台風でオランダ船が有明海で座礁し、その積み荷に日本の地図があったことからシーボルトが関与して日本の地図持ち出しが発覚したのでは、という発想で1828年9月の大台風をシーボルト台風と名称を変えたそうです。

1996年、別の方の論文が発表され、シーボルト事件発覚は江戸だった、とのことなのです。(オランダが把握している積み荷リストになかったよ、みたいな?)

シーボルト事件(国家機密の地図コピー渡したことが発覚)と同じ年に起こった大災害の台風だから覚えやすいね、くらいにしか思わなかったけれど、シーボルトさんのスパイ疑惑という名誉にかかわる!?

その後のシーボルトさん、徳川幕府の外交部門のアドバイザーみたいな仕事を依頼されたそう。すぐ辞めちゃったみたいだから、つまんなかったのかもね。

どこかで見ましたが、シーボルトさんは幕府に言われても地図コピー返却を拒んだそうです。

・フェートン号事件(イギリス船) 1808

1808年にフェートン号事件が発生。

イギリス船がオランダ国旗を掲げて長崎港内に侵入。フランスのナポレオン勢力下にあったオランダと対立していたイギリスは、長崎の港でオランダ船を拿捕しようとした!こんな事件だったようです。

オランダの旗を揚げているからオランダ船と思いこんで、出島の商館員(オランダ人)2名が向かったところ、実はイギリス船で、商館員2名が捕らわれてしまう。イギリスのけしからん船のフェートン号は、水と食料、薪(燃料?)を日本に要求。

長崎は小出しに水などを提供し、人質2名の返還に成功。フェートン号は出て行った。

人的被害なしでフェートン号は出て行ったものの、責任を感じた長崎奉行の松平図書頭は(国防要請に応えられなかった佐賀藩の人は幕府に怒られてのことだったようですが;)切腹してしまう!

生きようよ!オランダの商館員を守ったんだよ!

フェートン号事件の人的被害、日本のサムライを亡くすという大損害ですよ。(´;ω;`)ウゥゥ

・・・・哀しい気持ちを癒そう。

良い船の代表として、池島便の地域交通船の「進栄丸」(定員12名)の写真を見て元気だそう。

・エトロフ事件(ロシア船) 1806

1804年、ロシア使節レザノフが通商の要求のために長崎に入港。あらかじめ入港許可を持っていたから簡単に通商の話し合いが出来ると思ったロシア側ですが、幕府は拒絶。れきぶんの資料によると、「今、鎖国してるからもう来ないで」と伝えたそうです。

(いつの許可かは出島の資料にはないけれど、インターネット検索してみたら1792年のロシアのラスクマンを、たらいまわしした際に渡したらしき信碑でした)

2年後の1806年、エトロフでの日本人襲撃事件(エトロフ事件)を招くことになる。とありました。(函館で処理しておいてくれれば・・・・な気持ちがあるんでしょうか)

日本国内で攘夷論につながっていく長崎港で起こった事件を紹介しました。

自分の国が儲ける為に嫌がる相手に暴力で通商を迫るのは、悪いことでしたね!

これからは、やめよう。

関連年表

1543年(室町時代)にポルトガル人が種子島に漂着、鉄砲伝来、ザビエルが鹿児島上陸しキリスト教を伝える。

ポルトガル船が入港、大村さんが開港を初めて、その後長崎開港協定成立。

1580年(安土桃山時代)、大村純忠が長崎・茂木をイエズス会に寄進

1587年 秀吉が伴天連追放令を発布

1588年 秀吉が長崎、茂木、浦上をイエズス会より没収し直轄地とする。4年後に朱印船貿易許可。

1604年(江戸時代) 糸割符制度成立(いとわっぷせいど)

1616年 中国戦以外の貿易を平戸・長崎に限定

1634年 出島築造に着手。奉書船以外の海外渡航禁止に続いて日本人の海外渡航禁止。

1636年 出島完成。ポルトガル人を収容。

1637年 島原・天草一揆

1641年 鎖国体制完成

1828年 ドイツ人シーボルトのシーボルト事件(シーボルト台風)

(江戸幕府、アヘン戦争・ペリー来航など世界情勢を分かっていたのに無策でした、の印象を受けました。)

1853年 長崎にロシア極東艦隊司令官プチャーチン来航、アメリカのペリー艦隊が浦賀来港(幕府は前年の外国からの連絡を無視。まぁ結果は同じかもね)

1855年 前年のアメリカ、ロシア、イギリス、フランスなどとの条約を経て日蘭和親条約を締結。これにより出島のオランダ人拘束はなくなり、日本人も出島に自由に出入りできるようになった。

1859年 出島のオランダ商館は218年の歴史を経て、領事館が設置。貿易は長崎・横浜・函館が開港され、鎖国が終わり出島の役割も終わりました。

1868年(明治時代へ) 明治維新

投稿者: 小野寺 美奈

税理士。農業経営アドバイザー試験合格者。認定経営革新等支援機関。 川崎市・東京多摩地方を中心にした、地域密着・現場主義。 税務の記事はご自身で税法を確認されるか個別に有料相談に来てくださいね。