2026.5.15(作成日5.29) 長崎県の諫早の干拓事業を視察してきました~。
農業の歴史は重要で、奥深くておもしろいです!諫早の干拓、有明海への影響、八郎潟との比較、と知ったことを書きます~。
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・干拓事業の説明と歴史のリンク
秋田県の八郎潟を訪問したことを思い出しました。
干拓地の歴史は、九州農政局のHPに諫早干拓について簡単な説明がありました。
https://www.maff.go.jp/kyusyu/seibibu/isahaya/rekishi.html
2017年の早稲田大学のオープンカレッジのレジュメでしょうか、インターネット検索したらヒットした「干拓の歴史と景観」のPDFは、日本全体の干拓の歴史がまとめられていて分かりやすいです。
https://yorifuji.thyme.jp/wasedaopc/tikei2/waseda20170506.pdf
私は諫早の干拓事業で裁判をしているというイメージが先行していまして、諫早の人が困っているのかなと思って訪問した諫早ですが、思っていたのと全然違いました!
・八郎潟の干拓と諫早干拓を比較
秋田の八郎潟
上記のレジュメPDFによると、秋田の八郎潟は、大正7年の米騒動を発端に農地が増えたらいいな!な発想だったそう。約22,000haの日本第2位の湖を干拓して、昭和52年、20年かけ約17,239haの新しい農地が出来ました。52㎞の堤防で囲い、水を抜いたという!

長崎の諫早干拓
さて、長崎の諫早干拓は、昭和39年に国営諫早干拓が築かれた、と干拓の里資料館に展示の年表にあります。昭和54年は干拓反対のデモがあり、昭和58年に防災総合干拓として再開。昭和61年に県と湾内・湾外とで漁協保障協定に調印。
諫早平野はほとんどが干拓地だそうで、満潮を防いで堤防を作って出来た土地だそう。
諫早では1330年以降干拓を継続して来ていた。17世紀の後半頃からは、個人がちょっと作っていた程度の干拓でしたが、徐々に規模が大きくなり村の仕事になり、国が関与する事業にまでなりました。
平成元年に国営諫早湾干拓事業の起工式。20年かけて完成して平成20年から営農が始まりました。農地として土地を使うのに、塩を抜く必要があったと聞きました。干拓地した農地は581ha+91ha。秋田の八郎潟の新たな農地が17,239haだから、比べると諫早の干拓地農地はこじんまりではあります。
下の写真は、2026年5月訪問の諫早干拓の堤防道路の休憩所の説明パネルより。

最初の諫早干拓事業の話は前述通り昭和39年で、諫早大水害の昭和32年より後でした。新しい農地作りだったのかもしれないけど、反対の声が大きくてやめた。長崎大水害は昭和57年、これが関係したのか分かりませんが、翌年の昭和58年に防災総合干拓として再開されたのでした。
諫早干拓堤防の水門
秋田の八郎潟ではJR男鹿線の車内から水門を見ました!
長崎の諫早では、堤防の上をタクシーに乗って通りまして!水門を間近で撮影してきました。バス車内からも、諫早の”ギロチン水門”を撮れました。
(下の写真は、北部排水門です。左側は調整池。右側が有明海です。調整池を高くしてあって、有明海からの水が入らないようにしています。)
不穏な俗称なので、諫早の方がさぞやお怒りなのかと心積もりをして出かけたけれど、そんなことなかったワ。諫早の方たちにとっての干拓事業は、水害を防いでくれるし、農地も出来たし、良かったのかな。堤防道路があるから佐賀から島原へ行くのも便利になったよね。
・有明海の漁業に影響した諫早干拓
平成の国営諫早干拓事業は、有明海のすみっこを人工的に堤防を作って陸地を増やしたのですが、すみっことはいえ有明海の流れが変わってしまったようでした。
有明海は長崎県だけじゃなくて、佐賀県・福岡県・熊本県と、他県と接しているので、話が簡単じゃなかった、というのがインターネットでは出て来ます。
(だから国営事業だったんだろうけどね)
それで、私が去年の令和6年(2024年)10月に公開研・福岡の際に視察に行きました、福岡県の大牟田の三池炭鉱や三池港、県境近くの熊本県荒尾(万田坑)を思い出してみます。(・・・・福岡の旅が楽しかったから長崎の旅へつながりました)
有明の海を守れ!!みたいなの、あったのかな?あんまり気が付かなかった(^^;)三池港の税関のパネルも撮って来たの確認したけど、そこにはなかったな。探せば漁師さんたちの言い分がどこかにあると思います。
有明海は諫早に限らず、佐賀県、福岡県などにもちょいちょい干拓地はありましたので諫早だけ干拓してたわけではないみたいなのです。大きな規模で国営でやったのが諫早だったということ。
諫早平野から(?)諫早湾へ注いでいた川の水を、陸地に住んでいる人々の都合により有明海に排水すればセーフではなかった。有明海の漁業に影響が出たようなのです。それがテレビで連日報道されていた、諫早の開門と有明海のニュースでした。
裁判では、諫早の開門をする、という判決だったそうです。
諫早湾の干拓堤防水門を開けると、有明海がざっぶ~んと干拓地に流れ込み、農地は塩でダメになっちゃう。20年ぶりに開門したところで有明海が元通り~、になるとも限らず、かけたリソースも考えちゃうだろうし、まぁ開けないよね。(国営事業でご迷惑かけちゃったから、漁業の皆さんごめんねの補償は必要だと私は思います)
・堤防道路 雲仙多良シーライン
諫早干拓の堤防道路、雲仙多良シーラインを、エキマエタクシーを事前予約して走ってもらいました!やりたかったやつ!
有明海からの海水は諫早干拓地へ流れ込まないように堤防(ついでに道路にした)をつくったわけですが、従来通りの諫早湾に注ぎ込む川の水は、水門から有明海に注いでいました。
堤防道路の真ん中あたりにあるお手洗い休憩所の、雲仙多良シーライン展望所で見たよ!
諫早を通る山からの水は有明海に注いでいるから(河口の事情を優先する排水であるけれど)、自然に大きな影響はないと思ったけど、違うんだな~。
諫早の堤防道路を引きでも見れました。
下の写真は、小長井駅の手前でバス車内から撮影したもの。美しい写真を上手に撮れました。
左側のメロンバス停が目を引きますが、中央の山は島原半島の山。雲仙岳かしらね?その脇の右側の7本くらいの何らかが立ってるのが諫早干拓事業の堤防道路にある水門(おそらく雲仙市側の南部排水門)です。
あれが、ガシャガチャと一気に閉まったのが、ギロチン水門といわれたみたいです。有明海です。
・秋田の八郎潟と比べて、諫早は贔屓か?
日本の歴史上(世界中?)、人類は土地を取り合って争ってきました。地面は増えないのだから、奪い取り合ったのかなって。
農業技術が発展して、同じ広さでも2倍以上の収穫量が可能になりました。
八郎潟もだけど、大規模な干拓事業をして得た農地です。ありがたいことに技術発展で農作物が獲れすぎて減反政策、単価が下がるし余るから生産抑制という政策があったそう。(1970-2017?)地域による上限があり、八郎潟は影響をうけたみたいでした。
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令和7年は、令和の米騒動と呼ばれるコメ不足がありまして
(コメ不足と言っても品薄ながらお米は食べられましたよ。飲食店でごはんお代わり無料を止めたりしてたけど。価格上昇を抑えるために備蓄米を放出したりカリフォルニア米を緊急輸入したりして、スーパーで売れ残ってた)、
令和7年は農業政策の減反政策をする・しないでニュースになりました。猛暑で水不足もあった。余計な話をしてしまいました、戻します。
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諫早干拓は、減反政策中の平成1年に起工されてます(中断したのが再開なので事情がちょっと違うかな)。
長崎県は平地が少ないから減反政策の制限に入らなかったのかなとは私の勝手な憶測です、平らな干拓地で効率的農業が可能になれば安全。長崎市内は坂が多いしかなり都会だから広大で平らな農地が作れない。
秋田の八郎潟は生産制限がかかったのに、長崎の諫早干拓地は作るんですか!という声はあったかもしれないけど、私はあんまり諫早ヒイキとは思わなかったです。
穀倉地域は散らすのが安全だと思ったからです。八郎潟の農家さんから、つまんないな!と思わせちゃったらごめんなさいだけど・・・・。(また八郎潟に行くネ)
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食べ物がなければ生きられない。農業は重要だから歴史が長く、奥深くておもしろいです。






